BAR TIMES STORE JOURNAL
蔵本和彦
株式会社クラモト氷業 代表取締役社長
EDITOR'S INTRODUCTION
現在のクラモト氷業につながる商いは、1923年に金沢で始まった。その氷は現在、「KURAMOTO ICE」として海を渡り、世界のバーへと届いている。街の氷屋から、自ら氷をつくり、海外へ届ける会社へ。その挑戦を牽引してきたのが、五代目の蔵本和彦だ。
蔵本が仕事の中心に据えてきたのは、氷を使うバーテンダーの声だった。どんな氷があれば、思い描いた一杯をつくれるのか。氷屋として、その仕事をどう支えられるのか。自社製氷への挑戦も、用途に応じた加工も、海外への展開も、その問いとつながっている。バーテンダーとともに氷の可能性を広げてきた蔵本の歩みから、これからの氷屋のあり方を探る。

第一章 氷が、暮らしを支えていた頃
蔵本家の氷の商いが始まったのは大正12年。まだ一般家庭に電気冷蔵庫が普及していなかった時代だ。
当時使われていたのは、上段へ氷を入れ、その冷気で下段の食材を冷やす「氷式冷蔵庫」。家庭だけでなく、病院や鮮魚を扱う店にも、冷却のための氷が欠かせなかった。
創業当時の名称は「クラモト商店」。地元製氷会社の氷を仕入れて販売していた。店では氷だけでなく、日用品も扱っており、近所の買い物客が訪れていた。店先で大きな塊の氷をのこぎりで切り出し、必要とされる場所へ運ぶ。現在のように、透明な氷を美しく整え、グラスの中で輝かせるための仕事ではない。氷はまず、暮らしを守るインフラだった。
三代目の時代に「クラモト氷店」となった。1960年代、取引先の中心はスナックやクラブ、ラウンジなど、夜の飲食店へと移っていった。当時は、大きな氷の塊がそれぞれの店先にどんと置かれ、陽にさらされて営業時間までにある程度溶けてしまっても、それが当たり前だった。今のように、品質や形にまで価値を見出す時代が来るのは、もう少し先のことだ。

幼い頃、蔵本は氷の配達に連れて行かれ、よく動物園へ訪れたという。ホッキョクグマに与えるための氷だったのか、かき氷や飲み物を冷やすための氷だったのか、記憶は定かではない。ただ、氷を運び込む冷凍庫で見た、凍ったシーラカンスの姿だけは今もおぼろげに記憶にある。氷屋が街のさまざまな場所へ冷たさを届けていた頃の記憶。そんな環境で育った蔵本は、いつか家業を継ぎたいと思うようになっていった。幼稚園の文集にも、氷屋になりたいと書いた。しかし、大学を卒業する頃、家業の小さな氷屋には、彼を新たに迎え入れるだけの余裕がなかった。
卒業後は電気設備に関わる会社に就職し、図面を引きながらシステムを提案する営業の仕事に就いた。それでも、家業への思いは消えなかった。転機が訪れたのは、クラモト氷業が存続の危機に直面したときだ。会社を支える新たな担い手として、父から「入ってくれないか」と声をかけられた。25歳だった。
その頃は、朝早くから車に乗り、夕方まで氷を運び続ける毎日。売上の多くを夜の店に依存し、その先に大きな成長を描きにくい業界だと仕事に携わることで初めて知った。地域の氷屋も製氷会社も徐々に減り始めていた。
「正直に言うと、古くさい仕事だと思いました」
しかし、その仕事を捨てようとは考えなかった。
「氷屋は、このまま古くさい仕事で終わるんじゃない。かっこいい職業になる可能性があると思ったんです」
その可能性に気づかせてくれたのは、一杯の質を高めるために、氷にも妥協しないバーテンダーたちだった。
第二章 2億5,000万円を、氷に賭ける
クラモト氷業には、祖父の代から抱き続けてきた目標があった。仕入れた氷を売るだけでなく、いつか自分たちで氷をつくることだった。
蔵本が入社した頃の年商は約8,000万円。自社工場の立ち上げには約2億5,000万円が必要だった。既存の事業規模からすると、容易に成立する投資ではない。周囲からは「無理だ」と言われ、金融機関とも話し合いを重ねた。
それでも計画を止めなかった理由を、蔵本はこう話す。
「僕たちがやらなければ、いつか氷が届かなくなる時代が来る。先に投資することで、その流れを変えられると思いました」
北陸新幹線の金沢駅開業を控え、街の飲食需要が伸びるという期待も追い風になった。融資が決まり、2015年、金沢市湊で念願の自社製氷工場を設置。小売業からメーカーへと事業を拡大した。

開業に当たり、さまざまな製氷会社を訪れ氷のつくり方を見学し、勉強した。頭では工程を理解していても、同じ氷をつくることはできなかった。透明であるはずの氷は白く濁り、気泡を抱え、とてもじゃないが客に出せる状態ではない。処分するほかなかった。気づけば、工場の周囲に廃棄された20トンもの氷が積み上がった。早々に壁にぶち当たった。
「このときほど、氷に早く溶けてほしいと思ったことはありません」
凍る時間を30分延ばすのか。どの時点で水を入れ替えるのか。夜まで工場に残り、試し、失敗し、また試した。水温や外気、同時に仕込む量、作業する者のわずかな癖でも、仕上がりは変わる。ボタンを押せば、決められた時間に同じ製品が出てくるわけではなかった。
その経験から、クラモト氷業では氷を「製造する」と言わなくなった。
「氷は、つくるというより育てるものなんです。だから製造チームではなく、生産チームと呼んでいます」
氷は24時間、365日凍り続ける。現在も、すべてを解明できたわけではない。気候が変われば、工場へ入る水の温度も変わる。毎日同じように見える透明な塊の中に、その日の条件が刻まれている。
自分たちで氷をつくり始めると、仕入れて売っていた頃とは氷の見え方が変わった。以前は、氷にひびが入っていたり、思うように割れなかったりすると、仕入先の製氷会社へ不満をぶつけていた。
「製氷会社にはけっこう文句を言っていたんです。でも、自分でやってみたら、大変だったんだなと思いました」
すべての問題を解決できるようになったわけではない。それでも、なぜひびが入り、なぜ筋や濁りが生まれるのか。少なくとも、氷の中で起きていることを理解できるようになった。
蔵本たちは、原氷の中に現れる筋や、割れ方の方向性を「氷の目」と呼んでいる。氷の内部の違いを読むための現場の言葉である。氷は結晶でできており、結晶の向きや結晶どうしの境界、内部の微細なひびなどによって、力を加えたときの割れ方は一様ではない。
同じ135キログラムの原氷でも、切り出す場所によって、見え方や割れ方は異なる。肉に部位があるように、氷にも向く用途がある。蔵本たちは部位の性質に応じて、ロック用にするか、シェーク用にするかを見極める。その違いをバーテンダーと共有し、一杯に応じて使い分けられるようにする。
それが、仕入れて、切って、届けてきた氷屋が始めた製氷だった。
第三章 バーテンダーが、氷に意味を与えた
自社工場を持つ前のクラモト氷業にとって、バーは得意な市場ではなかった。量を使うスナックやクラブ、ラウンジには強かったが、一杯のために氷を選ぶバーとの接点は多くなかった。
蔵本の見方を変えたのは、東京などで経験を積み、金沢へ戻ってきた若いバーテンダーたちだった。
そんな時、あるバーから、細長いスティック状に切った氷を届けてほしいと注文が入った。残りの仕上げは店で行うという。それまでバーへ納めるものといえば、大きなブロックが当たり前。蔵本は、その注文を聞いて初めて、氷屋がバー業界に携われる余地に気づいた。
「捨てたもんじゃないな、と思いました。氷屋はかっこいい仕事になるかもしれないと」
そこから、バーテンダーへの聞き取りを始めた。営業前に氷の仕込みにどれほど時間を使っているのか。どのグラスにどの大きさが必要なのか。どこまで氷屋が加工し、どこからを自分で仕上げたいのか。
丸、キューブ、スティック。同じ形でも、長さ、厚み、角度が違う。聞き取った要望を一つずつ形にし、現在では約55種類を展開するまでになった。
自社工場をつくった当時、クラモト氷業には製氷の熟練者がいなかった。それは大きな弱点だった。しかし、製氷会社とは違う強みがあった。
「どうつくればいいかは分からなかった。でも、どんな氷がいい氷なのかは、僕たちが一番よく知っていたと思います」
長年、氷屋として飲食店へ直接届けてきた。つくり手から見た完成品ではなく、バーテンダーが使い、客が口にするところから逆算して氷を見ることができた。
「届けて終わりじゃないんです。グラスに入り、カクテルとして完成するところまでを考えています」


加工済みの氷は、仕込みにかかる時間を減らす。一方で、氷を切り、触れ、その日の状態を読むことは、日本のバー文化を形づくってきた技術でもある。
「できないからやらない、ではなく、できるけれどやらない、であってほしい。氷の知識や、氷に触れる技術までなくしてはいけないと思っています」
氷屋に任せる範囲を、店ごとに選べるようにする。効率と技術のどちらかを正解にするのではなく、その両方を残すことが、蔵本の考える役割だ。
この姿勢は、バーテンダーの要望を氷に反映することだけにとどまらない。
それはコロナ禍でのことだった。全国的に酒類の提供自粛や時短営業がすすめられ、金沢も例にもれず営業を続けることが難しいバーが多くあった。氷の注文も目に見えて激減した。そして、ある一軒のバーの店主から「もう限界だ。これ以上店を続けられない」と連絡があった。その時、蔵本はかき氷を提案した。かき氷であれば酒を提供できない時間帯でも営業でき、今までにない新しい客と出会えるかもしれないと考えたからだ。
店はかき氷を始め、思惑通りそこに新しいファンがついた。家族連れや20代の若者といった、これまでとはまったく異なる客層が店を訪れるようになった。コロナ禍が収束し、やがてバー営業が再開すると、かき氷をきっかけに店を知った客たちが、今度はカクテルを飲みに来るようになった。
どうしようもなく苦しかった時、蔵本の提案がひとつの店を救った。店主からは「命の恩人」と感謝の言葉をもらったという。「大げさに言ってくれるんです」と言いながらも、「氷屋をやっていて、心にしみる出来事でした」と蔵本ははにかみながら振り返った。
氷を納めることだけではなく、相手の仕事が続く方法から考える。蔵本にとっては、それも氷屋の仕事だった。
第四章 遠いラスベガスが、東京より近かった
蔵本には、いつか自分たちの氷を届けたい街があった。ラスベガスだ。
新婚旅行で訪れ、各店でカクテルを飲んだ。華やかなホテルバーで出てきた一杯に、自分が納得できる氷は入っていなかった。その経験を、蔵本はウェブやSNSで発信し続けた。
2018年のある日、ロサンゼルスの食品商社で働いていた米澤直人という人物から連絡が入った。アメリカで氷の事業を始めようと日本の氷屋を探し、その中から最初に蔵本へ声をかけたという。
二人に面識はなかった。しかし、米澤氏は、蔵本なら新たな挑戦にともに踏み出してくれると考えた。
「アメリカのビジネスだけでなく、人生が変わるほどの出会いでした」
2019年、アメリカへの輸出が始まった。コロナ禍によって多くのバーが営業を止めたが、ラスベガスは動いていた。米澤氏は現地のバーテンダーと対話を重ね、クラモト氷業の氷が、ホテルバーで採用されることになった。
米澤氏から電話がかかってきた。
「夢が叶ったよ」
新婚旅行で思い描き、発信し続けてきた場所に、二人の仕事が届いた。その一報を受けた瞬間、蔵本の目頭が熱くなった。
ラスベガスでは、一軒のホテルバーから口コミによって別のバーへも広がっていった。クラモト氷業の氷は、ロサンゼルス、ニューヨーク、ボストンなど、アメリカのほかの都市にも届いている。海外へ打って出たことは、日本との距離も変えた。
金沢にいるだけでは、東京の第一線で活躍するバーテンダーと接点を持つのは難しい。しかし彼らがゲストシフトでロサンゼルスを訪れ、現地でクラモト氷業の氷を使う。そこで生まれた関係から、日本での対話が始まった。
蔵本は、その変化を「近いようで遠い。遠いようで近い」と表現する。海外へ出たことで、東京のバーテンダーとの接点も生まれた。
現在、「KURAMOTO ICE」は、アメリカ、オーストラリア、シンガポールのバーでも使われている。
氷は溶ける。国が変われば、冷凍物流の仕組みも、街の道路も、店へ運べる価格も違う。透明な氷をつくるだけでは、海外のグラスまで届かない。現地の流通を理解し、品質を保ったまま運び、バーが一杯に使える価格へ収める。そのすべてが、蔵本にとって氷をつくる仕事に含まれている。
第五章 バーテンダーの思考を止めない
ラスベガスへ氷を届けたことは、蔵本にとって長年の夢の実現だった。だが、それは仕事の終着点ではない。
蔵本は、自身の仕事のゴールをこう話した。
「欲しい氷が手に入ること。それによって、バーテンダーの思考を止めないこと。それが僕らのゴールだと思っています」
つくりたい一杯を思い描いたとき、必要な氷がないために、その発想を諦めなくて済むこと。すべてを氷屋に任せたい店にも、最後は自分の手で仕上げたい店にも、それぞれが必要とする状態で氷が届くこと。
形や大きさの選択肢を増やすこと自体が目的ではない。バーテンダーが考え続けるための余地をつくることに意味がある。
そしてもう一つ、蔵本が目指すのは、「KURAMOTO ICE」を世界にその名が届くブランドへと育てることだ。その根底には、自社の氷を通じて、日本のバーテンダーと氷屋が積み重ねてきた仕事の価値を世界に伝えたいという思いがある。グラスやシェーカーに、国境を越えて知られるブランドがあるように、氷にもそうした存在をつくりたいと考えている。
「僕らを育ててくれたのは、バーテンダーです。日本の氷屋が世界で評価されれば、その背景にいる日本のバーテンダーが称賛される理由の一つにもなると思っています」
日本では、バーテンダーがより良い氷を求め、氷屋がその声に応えてきた。新しい形が生まれれば、それを使う技術も磨かれる。その往復が、日本独自のバー文化を育ててきたと蔵本は考えている。
かつて、工場の周囲に積み上がった20トンの氷は、製氷の難しさを蔵本に教えた。だが、氷屋の仕事が本当に評価される場所は、工場の中にはない。
金沢で育てた氷を世界へ届けても、蔵本が見る先は、工場でも輸出先の地図でもない。グラスを前にしたバーテンダーの手元だ。
氷は、氷屋の工場で完成するのではない。
バーテンダーが選び、手を加え、酒を注ぎ、客へ差し出したとき、一杯の中で初めて完成する。

PROFILE

蔵本和彦
株式会社クラモト氷業代表取締役社長。1985年、石川県金沢市生まれ。大学卒業後、電気設備関連会社でシステム営業を経験し、2010年に家業へ入社。加工、配送、営業など現場の仕事を担いながら、2015年の自社製氷工場設立、カクテル向け氷の開発、海外事業を推進した。2019年にアメリカへの本格輸出を開始し、その後オーストラリア、シンガポールへ展開。2024年4月、5代目代表取締役社長に就任。「氷も選ぶ時代になりました」を掲げ、KURAMOTO ICEを世界のトップブランドにすることを目指している。